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福岡高等裁判所 昭和50年(う)217号 判決 1976年3月29日

主文

原判決中被告人に関する部分を破棄する。

被告人は無罪

理由

本件控訴の趣意は、弁護人岩成重義が差し出した控訴趣意書に記載されたとおりであるから、これを引用し、これに対し次のとおり判断する。

所論は要するに、原判決は、被告人に対し過失による安全運転義務違反の事実を認め、罰金五〇〇〇円に処する旨の判決を言い渡したが、しかし、被告人は安全運転義務を果しているので、違法な行為も過失もないものというべく、原判決には判決に影響を及ぼすべき事実誤認があり、破棄を免れ難い、というのである。

本件公訴事実は「被告人は、昭和四七年三月二八日午後五時五〇分ころ、軽四輪乗用自動車を運転し、北九州市小倉北区東清水町二丁目トヨタ中古車センター横の交差点において右折のうえ新生町方面から国道三号線方面に向けて時速約二〇キロメートルの速度で直進し、右中古センター展示場出入口付近にさしかかつたのであるが、運転中は絶えず進路前方および左右を注視して障害物の早期発見に勤め、進路の安全を確認しつつ進行すべきであるのに、右折時から時速約二〇キロメートルに加速しつつ漫然と進行したため、右展示場内から後退し同所前の車道において一時停止のうえ方向変換しようとしていた稲留正勝運転の普通貨物自動車に気付くのが遅れた過失により、同車との衝突を避けるためあわてて右転把して同車の後方を通り抜けようとしたが、及ばず、折から後退して来た前記稲留運転車両の後部に自車左側面部を接触させ、もつて他人に危害を及ぼすような速度と方法で運転したものである。」というのである。

これに対し原判決が、「被告人柳鶴一徳は昭和四七年三月二八日午後五時五〇分ころ北九州市小倉北区東清水町二丁目において、軽四輪乗用車を運転し同市同区新生町方面から国道三号線方面に向け時速約二〇キロメートルの速度で右折し、さらに直進してトヨタ中古車センター展示場前にさしかかつたが、自動車運転者は、運転中絶えず進路前方および左右を注視して障害物の早期発見に努め、道路の交通および当該車両等の状況に応じた速度と方法で運転すべきであるのに、左右の安全確認不十分のまま漫然と同一速度のまま進行した過失により、折から右展示場内から同所前の道路に後退しつつあつた稲留正勝運転の普通貨物自動車の後方を通過できるものと速断して進行したため、稲留運転の車両後部に自車の左側部を接触するに至らしめ、もつて他人に危害を及ぼすような速度と方法で運転したものである。」との事実を認定し、これに、道路交通法一一九条二項、同条一項九号、七〇条(過失による安全運転義務違反)を適用して、被告人を罰金五〇〇〇円に処する旨を言い渡したことはまさに所論の指摘するとおりである。

そこで、所論の当否の判断に入るに先立ち、職権をもつて、原判決の理由不備の有無ならびに法令の解釈、適用の誤りの有無について検討することとする。

道路交通法一一九条二項、同条一項九号、七〇条の過失による安全運転義務の違反の罪について、有罪の言い渡しをするには、罪となるべき事実において、過失によつて他人に危害を及ぼすような速度と方法で運転した事実を認定することが必要である(最高裁判所昭和四六年一〇月一四日第一小法廷判決、刑集二五巻七号八一七頁参照。)、しかるに、原判決は、前記のごとき事実を認定判示しているのであつて、右判示事実からは、被告人の安全運転義務違反の行為として、どのような速度と方法で運転したのか、またそれについてどのような過失があつたのか明確にされていない。被告人運転の軽四輪自動車と、稲留正勝運転の普通貨物自動車との接触事故について、被告人または稲留正勝に過失があつたかも知れないが、また、かりに被告人に安全運転義務違反があつて、これが接触事故の原因となつていたとしても、このことから直ちに被告人の右安全運転義務違反が、被告人の過失によるものということはできないのである。原判決は、過失に該当する事実を確定しないで、被告人に過失による安全運転義務違反の罪の責任を問擬して、道路交通法一一九条二項、同条一項九号を適用したものであつて、原判決には、法律の解釈、適用を誤つた違法があるか、または理由不備の違法があるものといわねばならない。

次ぎに、所論にかんがみ、原判決について、事実誤認の有無を検討することとする。

原審ならびに当審において取り調べた各証拠によると、被告人運転の軽四輪自動車(以下被告人車と称する。)と稲留正勝運転の普通貨物自動車(以下稲留車と称する。)が接触事故を起した現場は、北九州市小倉北区新生町方面から国道三号線方面へ南北に通ずる道路上で、かつ同区東清水町二丁目所在の福岡トヨタ自動車株式会社小倉営業所(トヨタ中古車センター、同営業所は右道路西側に接している。)展示場正門扉であつて、同道路は、幅員約5.7メートル、アスフアルト舗装が施してあり、直線かつ平坦で、極めて見とおしがよく、同展示場の正門は、道路西側の側溝(暗きよとなつていた。)を隔てて設置されており、門の内幅は約5.7メートルであつたこと、本件当時の昭和四七年三月二八日午後五時五〇分ころは、右道路から展示場へ、また展示場から右道路への、車両ならびに人の出入は閑散で稲留車のほかにはなかつたこと、被告人は、右時刻ころ被告人車を運転して、同市同区清水町方面から同区東清水町二丁目の交差点を経由し、同交差点を右折して、前記道路を右展示場入口正門前に向つて進行していたが、当時右展示場前の道路上には、被告人車以外に車両はなく、歩行者も居なかつたこと、そのころ右展示場に来ていた稲留正勝は、展示場内の事務所前付近に稲留車を――その前部を奥に向けて――駐車していたが、国道三号線の方へ向つて帰つて行くべく、一旦同車を後退させて展示場の門から直角よりも幾分斜になる状態で道路上に出て、同所でさらに前進、後退をしながら同車の方向変換を行なおうと考え、同車を運転して同事務所の事務員田中優の誘道で後退を始め、同車の後部先端付近が同展示場の門扉のレールの上部付近にさしかかつたところで一時後退を停め、幾許もなく、何人の誘導も受けないで再び後退を始め、その直後ころ被告人が両車の接触地点(この接触地点は、原審における第一回の現場検証ならびに当審における現場検証の際、いずれも稲留正勝が指示説明したところに遽る。)から約7.8メートル位手前に被告人車の前部先端が達した位置付近で、左斜前方から稲留車が急に幾分斜に後退して来たのに気付いたが、急制動しても間に合わないと考えた同人は、急遽右に転把して衝突を避けようとしたが、被告人車の接近に気付くのが遅れた稲留正勝が、漸やく被告人車に気付いて急制動を始めた時は既に遅く、稲留車の後部右端付近と被告人車の左側中央付近を接触させる交通事故を発生させるに至つたことを認めることができる。

そこでまず、被告人に道路交通法七〇条に定める安全運転義務に違反した事実があつたか否かの点から考察するため、接触事故発生直前の諸状況を今少しく精細に観察すると、前叙のごとく、当初後退を始めていた稲留車が、その後部先端付近を、展示場門扉のレールの上付近に達した状態で一時停車し、若干の時間をおいて稲留正勝が何人の誘導も受けないで再び同車の後退を始め、道路に対して直角よりも幾分斜の状態で道路上に進み出た直後ころにおける被告人車の位置は、両車の接触した地点から約7.8メートル位手前付近に被告人車の前面先端が達していたのであり、被告人車が同地点から両車の接触した時点までに進行した距離は、同車の車長が約2.9メートル、接触を始めた位置は同車の車体の左側中央部付近であつたことに徹し、約9.3メートルということになる。他方稲留車の進行状況は、右展示場門扉のレールから接触地点まで4.95メートル、道路の西側(展示場側)端から接触地点まで約3.75メートルであり、被告人が稲留車の後退を始めて発見したのは、同車がその後部を道路上に進出させた直後と推定すると、被告人車の速度が約二〇キロメートル毎時であつたことと対比して、稲留車が道路上に後退進出して来た当時の速度は約七キロメートル毎時位の速度であつたと推定されるところであつて、このことは当審証人田中優の供述とよく符合するところである。

しかして、被告人が稲留車の後退を発見したのは、前叙のごとく同車の後部先端が道路上に進出した直後ころであつて、同車が当初後退を始めた後、同車の後部先端付近が門扉のレールの上付近に達した位置、すなわち同車の車体全部が展示場内に悉く入つている状態で一時停止していた状況をも考慮すると、被告人の稲留車の発見が特に遅れていたとは断じ難いところであつて、前記の両車の接触事故は、稲留正勝が、他人による誘導の補助を受けないで、左後方の確認を十分に行なわないまま再び後退を開始したため、被告人車の接近に気付くのが遅れ、ために適確な急制動の措置がとれず接触事故を起すに至つたもので、その原因は、稲留正勝が、稲留車の方向変換を行なうについて、道路幅が5.7メートルでは、他の車両の進行の妨げとなるおそれが多分にあるので、他人の誘導を受けないで後退し方向変換を行うには、他の車の車両の進行していない始期を選んで行なうべきであつたのに、被告人車が接近していた時期に後退を始めた後退時期の選定の誤りと、左後方の安全の確認を怠つたため、被告人車の発見が遅れて確実なブレーキ操作を行なわずに約七キロメートル毎時の速度で後退を続けたことによるもので、かかる他人に危害を及ぼすような速度と方法で運転した安全運転義務違反にあつたことは、も早や否定し得ないところであるが、ひるがえつて、被告人の側をみると、被告人が稲留車の後退を発見した時点における被告人車の先端の位置は、前叙のごとく両車の接触地点から約7.8メートルの地点であつたのであるから、これと、約二〇キロメートル毎時であつた被告人車の速度を基礎にして、空走時間を0.8秒ないし一秒、この時間に被告人車の進行し得る距離は約4.5メートル位ないし5.6メートル位、制動に要する距離はアスフアルト路面が乾燥しているときで約2.2メートル、湿つているときでは約3.8メートル位を要するので(これらの諸元は、科学警察研究所の発表によるものである。また、本件当時、事故現場付近の路面の乾湿の状況は記録上必ずしも明確ではないが、特に湿つていた状況を窺わせるものはない。)、乾燥した状態にあつたものと想定すると、被告人が稲留車を発見して確実にブレーキを操作しても、被告人車が停止するまでに6.7メートル位ないし7.8メートル位を要することとなるので、路面が乾燥していても被告人車と稲留車の接触の可能性は避け難いものといわねばならない。しかるときは、被告人が、稲留車の後退を発見して、急制動するいとまはないと判断して、急きよ右に転把して衝突を避けようとした措置に対し、他人に危害を及ぼすような方法で遅転した、との評価を加えることは相当ではない。

さらに、被告人が稲留車を発見する以前の段階において考察しても、被告人が稲留車を発見する時点以前における同車の動静は前叙のごとき状況であり、幅員が5.7メートルで平坦かつ極めて見とおしのよい前記道路の状況および右道路上には被告人車以外に車両の通行はなく、また歩行者の通行もない交通の状況のときに、右道路上において誘導者が誘導を行なうなど、展示場から車両が前進または後進の態勢で右道路上に進出して来ることを予知せしめる特段の事情がない場合は、機能上何等欠陥のない車両であれば、たとい二〇キロメートル毎時の速度を多少超過して走行したとしても、交通の安全と円滑を害するおそれはなかつたものというべきであるから、かような道路ならびに交通の状況下において、前記のごとき特段の事情がないときに、被告人が機能的に何等の欠陥も認められない被告人車を運転して、約二〇キロメートル毎時位の速度で右道路の左側寄りを進行しても、他人に危害を及ぼすような速度と方法で運転したものということはできない。

しかるときは、被告人の前記運転を通じて、これに対し、道路交通法七〇条所定の、安全運転義務に違反の評価を加えることは、相当とはいい難い。

被告人に安全運転義務違反の事実がない以上、故意または過失の存否をせん索するまでもなく、本件被告事件は、道路交通法一一九条二項、同条一項九号の過失による安全運転義務違反の罪は勿論のこと、故意犯も成立しないものといわねばならない。過失による安全運転義務違反を認めた原判決には、明かに判決に影響を及ぼすべき事実誤認があるもので、破棄を免れ難く、論旨は理由がある。

よつて、刑訴法三九七条一項、三七八条四号、三八〇条、三八二条により原判決中被告人に関する部分を破棄し、同法四〇〇条但書の規定に従いさらに自ら次のごとく判決する。

本件被告事件は罪とならないので、同法三三六条に則り無罪の言い渡しをなすべきものとし、主文のように判決する。

(藤原高志 真庭春夫 金澤英一)

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